こんにちは、大平です。
「エージェントが出てきて、SaaSはもう終わりなんじゃないか」という話を、最近よく耳にするようになりました。給与計算も営業管理も請求管理も、AIを使えば自社で作れてしまう。だったらSaaSにお金を払う理由がなくなるじゃないか、という理屈です。
先に結論を言います。機能は確かにすぐ作れる時代になりました。それでも、死ぬSaaSと死なないSaaSに分かれます。分かれ目は機能の多さではなく、「何を蓄積しているか」と「施策をどれだけ速く回せるか」にあります。この記事では、SaaSを運営する経営層・プロダクト責任者に向けて、その中身を書きます。
「SaaSはAIで内製できるから死ぬ」は半分正しい
僕はAI駆動開発を仕事にしている立場なので、はっきり言えます。単体の機能は、AIをうまく使えば本当にすぐ作れます。請求管理の画面も、承認フローも、レポート機能も作れる。機能そのものは、もう参入障壁ではありません。ここまでは死亡論の言う通りです。
しかし、この死亡論には2つの見落としがあります。「作れる」と「実際に作る」の間には大きな差があり、「作れる」と「同じ価値を再現できる」の間には、もっと大きな差があるということです。
見落とし①:ツールがどれだけ進化しても、やらない組織はやらない
内製化の波は、実は今回が初めてではありません。ノーコードやローコードは10年以上前からあって、当時も「これで業務システムは内製できる。SaaSは要らなくなる」と言われていました。実際にはどうだったか。その10年は、SaaS全盛の10年でした。
作れるツールを渡されても、やらない組織はやりません。作るのが面倒くさい。どう作っていいかわからない。作ったものを本番で動かすのが不安で、二の足を踏む。現場で相談を受けていると、この3つは本当によく聞きます。
AIが下げたのは「構築のコスト」です。一方で、本番に出す不安をヘッジする仕組み、法改正への追従、ライブラリのセキュリティ対応、作った担当者の退職。こうしたプロダクトのオーナーシップを持ち続けるコストは、AIでは下がっていません。AIでちゃんと動くものが作れたとしても、それを組織の意思決定に反映して維持し続けられるかは、別の問題です。内製の判断は「作る工数」ではなく「持ち続けるコスト」で見積もるべきで、そう見積もると、多くの会社にとってSaaSを使い続ける方が合理的なままです。
見落とし②:機能はコピーできても、行動ログはコピーできない
では、それでも競合や内製ツールが同じ機能を作ってきたとき、何で勝つのか。僕が挙げるポイントは、顧客データの蓄積です。
顧客データと言っても、氏名やメールアドレスのような名簿的な情報の話ではありません。そのプロダクトの利用情報、つまり顧客の行動ログです。誰がどの機能をどの順番で使い、どこでつまずき、どんな設定で成果を出しているか。この行動ログを詳しくトレースして、その前提情報が活きる施策を打つ。
例えばAI機能を組み込むとき、蓄積した行動ログをコンテキストとして渡せるかどうかで、精度が大きく変わります。競合が同じ機能を作っても、ログがなければ同じ精度は出ません。機能はコピーできますが、データはコピーできない。ここが、真似のできない資産になります。
蓄積したログは「業界のベストプラクティス」に昇華できる
行動ログの価値は、自社のAI機能の精度だけではありません。もう一段上があります。
個別の担当者が考えるベストなやり方は、業界のベストではない可能性が高い。1社の中にいる限り、他社がどう運用しているかは見えないからです。SaaSは違います。1つのプロダクトで数百社の運用を見られる。この立場でしか作れないのが、業界横断のベストプラクティスです。
横展開には2段階あります。1つめは数字の横展開、いわゆるベンチマークです。メールマーケティングSaaSのKlaviyoは、業種や規模が近い約100社を匿名データでグループ化し、「自社の開封率や購入率は同業と比べてどうか」を毎月更新で見せる機能をプロダクトに組み込んでいます。国内でも、WACULのAIアナリストが3.5万サイト超の解析データから「勝ちパターン」を抽出して施策を提案しています。2つめはワークフローの横展開です。数百社で一番うまくいっている業務フローを、デフォルト設定やテンプレートとして機能に焼き込む。顧客のデータを直接見せないので抵抗感が出にくく、競合からは「なぜそのデフォルトなのか」の理由が見えません。
ここに、内製のもう1つの弱点があります。AIによる内製では、担当者の現在の業務に最適化されたシステムができる確率が非常に高い。つまり、今のやり方を固定化します。内製は現在の業務を固定化し、SaaSは業界の最適解に業務を寄せる。業務全体の効率で見ると、この差は小さくありません。
データ活用の建付けは、利用規約で先に固めておく
ここで必ず出てくるのが、「うちのデータが競合のために使われるのは嫌だ」という顧客側の抵抗です。実際にやっている各社は、規約で先に建付けを固めています。
freeeの利用規約には、「会員情報の属性集計・分析等を行い会員が識別・特定できないように加工したものや、仮名加工情報、匿名加工情報及び統計情報を作成し、本サービスおよび当社のその他のサービスのために利用することがあります」という条項があります(第25条)。型としては、統計処理をすること、顧客を識別できない形にすること、その条件で利用の許諾を得ること、の3点セットです。これからSaaSを作るなら、この条項は最初から規約に入れておくべきです。データが溜まってから同意を取り直すのは、桁違いに大変なので。
攻めの武器は、AI駆動開発による高速検証
データの蓄積は、死なないための土台です。ただ、土台の上で成長するには、もう1つ武器が要ります。AI駆動開発をプロダクト組織に取り込むことです。
プロダクト基盤が整っていれば、AIで実装は本当に速くなります。すると何が変わるか。今まではエンジニアの工数が足りないので、施策を「紙の上で」厳選するしかありませんでした。本当は出していれば刺さったかもしれない施策が、実装コストを理由に紙の上で落とされていた。それが、出して確かめられるようになります。
AnthropicやOpenAIは、毎週のようにリリースを出しています。中には評判の悪いバージョンもありますが、出し続けることで確実に改善されていく。このリリースサイクルを自社のSaaSにどう取り込むかが、これからのプロダクト運営の論点です。
データと速度の好循環が、SaaSの寿命を決める
そして、守りのデータと攻めの速度はつながっています。施策を高速で試せるようになっても、施策の候補は無数にあります。何を試すかを判断する材料が要る。その材料こそ、蓄積した行動ログです。
つまり、こうなります。データが蓄積する。施策の打率が上がる。AI駆動開発で高速に検証する。さらにデータが溜まる。この好循環の回転数が、そのままSaaSの寿命を決めます。機能で差別化できない時代のプロダクト戦略は、このループをいかに速く回すかの設計だと僕は考えています。
まとめ
- 機能はもう参入障壁ではない:AIで単体機能はすぐ作れる。ここを認めるところから戦略が始まる
- 内製の脅威は「持ち続けるコスト」まで見ると小さい:AIが下げたのは構築コストで、オーナーシップのコストは下がっていない
- 蓄積すべきは行動ログ:機能はコピーできてもデータはコピーできない。業界横断のベストプラクティスに昇華すれば、内製では作れない価値になる
- 回転数が寿命を決める:データ蓄積と高速検証の好循環を、プロダクト戦略として設計する
「何を作るか」の前に、「何を蓄積するか」を議論してみてください。死なないSaaSの設計は、そこから始まります。
